冠婚葬祭の舞台裏

冠婚葬祭ほど宗教がもの言う(?)時はない。結婚式では仏式も神道キリスト教もお構いなく受け入れられて衣装だけ両方共の人もいる。しかし葬儀だけは流石にミックスはない。もう30年程前だが初めてキリスト教の葬儀に参列する事になった。高齢の女性はクリスチャンだったので教会での葬儀を希望された。だが、その方の御親戚にクリスチャンはひとりもいらっしゃらなかった。親戚の方々は献花しかない、お経も位牌もご焼香もない慣れない葬儀に我慢の連続であったろう。遺骨を骨壺に納める時のことだった。ちょうど牧師と私の二人が、どうぞと勧められてそれぞれに拾いはじめた。我慢の限界にきてか後ろに並んでいた中年男性が激怒した。「何てこった、骨は二人で持って入れるんだよ!もうやってらんないよ!」私が彼の怒声に振り返ると男性は怒ったままその場を出て行った。牧師を見ると何事もなかったかのように黙々と骨を拾っていらした。最近は仏教でも「二人で持ちにくい時はひとりでいいですよ」と言われるようだ。葬儀の宗教違いは知ってたけど火葬場での宗教違いは私はこの時まで知らなかった。葬儀に参列する機会が殆ど無かったからだろう。故人と参列者の宗教の違いはなかなか難しいものがある。私も最近、母を亡くした。クリスチャンは家族でも私だけだ。私が母をみていた事もあり喪主となった。実家は浄土真宗なので、そちらのお坊さんを頼んで浄土真宗で葬儀も済ませた。依頼したお坊さんは他の宗派の特徴まで多くの事を教えてくださった。「浄土真宗は結構自由なんですよ。浄土真宗は物に魂が入るなんてことはありません。終わったら遺影も位牌も分別してゴミに出してくださいね。それじゃあ気が済まないと思われるのでしたら、お焚きするなどしても良いでしょう。燃えるゴミでいいんですよ。ご遺体に小刀も必要ありません、浄土真宗は亡くなったと同時に往生するからです。」と言って小刀を取り除けられたが安置所では葬儀社の方がまた小刀を載せていた。小刀が載っていようがいまいがどちらでも良い。私は正直ホッとしていた。様々な宗派があって儀式があって何宗派を名乗っても本当のところ自分の宗派の事も詳しくは知っていないことが多い。葬儀社の方々もいろんな宗派を承るから混同して訳がわからない。ああしなければいけない、こうしなければならないと思い込んでいるだけで、その根拠も知り得ないというのが本音だろう。だが様々な宗教の違いに関係なく葬儀は残された人の為の気がする。クリスチャンだった故人は他の御親戚が知る事もなかった葬儀に参列して、これまでと違う経験をして欲しいという思いから教会でと願われる。大切な証の場になり得るので本来なら異なる宗教の遺族にも体験して欲しいと思ってのことである。故人がクリスチャンであっても必ずしも教会で葬儀されるとは限らない。ご遺族の仏式の葬儀に招かれれば遺族の方が嫌な思いをされないように仏式に徹するという牧師がいらした。このように葬儀は故人の意向より残された遺族の決定が優先される事もある。それを思えば我慢して故人の意向を尊重された先のご遺族は優しかったのかもしれない。