時間はあるのに時間がない

 3年程前だったろうか?Amazon Prime 会員を辞めるとき理由を書かされた。私は見たい放題の特権を使うことがない。ただショッピングするだけなので送料のメリットのみだ。そのショッピングも買うものが減ってくると赤字になってくるので辞めたいと書いた。するとAmazon は使った分だけの支払いで良いと言ってきた。買い物でプライム会員で送料がこれだけお得になりました、と毎回表示される。年会費より少なかった場合は使った分だけの支払いになり年500円の時があった。にくいね、Amazon。メリットは送料がプライム価格の物を購入する時だけであるが、会員でないからと諦めて別の物を買ったり別のECに変えたりしなくてすむことだ。そうそう年会費が赤字になるというデメリットも解消された。最近は有料の動画もいろいろあるが私はいっさい見ない。興味も時間もないからである。今は仕事もしていないのだから24時間が全部自分の自由時間だ。それなのに時間がないというのは何だろう?テレビを見る時間もめっきり減った。大して見たい番組もないからだ。たまに見たいドラマがある時だけ予約して見る。録画機能もないから視聴予約だけで見落としたからといっても、たまたま再放送で見ることはあってもネットで見逃し配信をわざわざ見ることもない。たぶん時間がなくて見ないのではなく興味がなくて見ないということだ。一概に年齢のせいとは言い難い、興味は個人差がある。興味の対象が変わったのなら良いが、そんなことはなく興味そのものが引潮のように引いてしまったと感じる。一時的なものなのかどうかはわからない。

 ただ睡眠時間が増えたせいか夢をよく見るようになった。今日は海外旅行に行っている夢を見た。高校の同級生数人で行ったホテルに皆がカバンを忘れた。私は中くらいのボストンバックと小さいバックのセットで藤色や赤や青、黄色などの柄のビニール製の物だった。紛失届けを出した後なぜか街を探して歩きながら、街で無くした訳ではないのにと気づき、旅のリーダーに電話しようとスマホを見た。すると位置情報から、さっき歩いた街の店舗が映し出された。さっきは道路を歩いていたから判らなかったけれどスマホには上から見下ろした店舗があった。運河に浮かんだ船の形をした土地に4店舗程が並んでいて綺麗だった。歩いていた時は全く気付かない景色に見とれてカバンを無くした焦りなど消えていた。段々になった街並みの中段には公園がありイベントの為、大勢の人が集まっていた。カラフルな装飾の店舗は西洋でもアジアでもなかった。夢の中でカバンが戻ってくる可能性は低く事態は良くないはずなのにキラキラした明るい街は気持ち良かった。私はいったい何処に行ったのかなぁ?と目覚めてから不思議な気分だった。ちなみに夢の中でスマホの画面を見たのは初めての経験だった。

精神科へ

 30才を前に「君は太宰を地でいってるね。」と職場の女の子に言われた。私達は時々7人程で昼休み時間に病院ごっこをして遊んだ。受付、内科、外科、と割り当てられると私は決まって精神科だった。「え〜また精神科なのぉ?たまには別なのがいいなぁ。今日は外科にしようかな?」と言うと「こんなこと言ってるのよ。」と他の人に告げ「駄目よ、君は精神科!」「しょうがないわね、そんなに聞き分けがないなら隔離病棟に入れますよ。」「そうそう!」と全員一致で決められるのだった。先輩のひとりが私の耳元で「私が気付いただけでも6項目あるわ。精神科に行った方がいいわ。」と箇条書きした小さいメモを見せて「研修医って安いのよ。」と付け加えた。何でもよくご存知の先輩だった。

 そんな事があってから1年も経たないうちに私は救急車で運ばれた。救急車の中で首に注射をうたれ、CTや脳波を撮り内科でいろいろな検査を受けた。翌日だったのか数日後だったのか覚えていないが病院の精神科の待合室にいた。どんな先生だろう、と白髪で恰幅のいい老医師を思い浮かべていた。人生を通ってきた医師なら安堵して何もかも話せる気がしたからだ。名前を呼ばれて診察室に入ると若い医師が開口いちばん「あなたは検査して器質的異常が何も見当たらなかったから、ここにいるんですよ。」と患者の不安を払拭するように説明した。そして脳波の検査結果をじっと見て「あなた寝てたでしょ。」と怒ったように言った。救急車で運ばれる数日前、いや数ヶ月前から私は夜あまり眠っていなかった。頭を撫でられると眠くなる私は脳波検査のパッドを頭に設置されながら誰かがいる安心感から心地良い眠りに落ちていったのだが、そんなことは言えなかった。こうして私のカウンセリングが始まった。

 P医師が若いので少し不安になった私は「私のことが解るの?」と訊ねた。彼は笑って「解るよ。」と言った。「普通の人は明と暗の割合が明が8割で暗が2割くらいなんだけど、あなたの場合は明は2割で暗が8割なんだ。」職場の先輩からメモ書を見せられて精神科に行くよう勧められたことを話すと「その時どうして来なかったの!」と怒った。「冗談だと思ったから。」今でこそハートクリニックと柔らかい呼び方をされ風邪で内科を受診するような気軽さがあるが、当時は精神科はまだまだ敷居が高かった。私は職場で病院ごっこしていたことも話せなかった。ふと、精神科は内科より恥ずかしいと思った。服を脱いで診察されるより身体の中を通り抜けて背中まで貫き通される視線に自分の全てを見られている羞恥を感じた。私はカウンセリングを受けながら思っている事の十分の一も言えないことに気づいた。私の胸の中に椅子に縛り付けられ口をテープで塞がれ目配せだけで助けてと訴える、もうひとりの自分がいた。それは羞恥心のせいなのか、よく判らなかったがP医師は心を開いてくださいと何度も言い小さい紙に自閉と書いた。私はとてもショックを受けた。治癒には痛みも伴う。自分が気づいていないことを指摘してもらえるのは後になると有り難いのだけど、聞いた直後はショックを受けるものだ。他に「どうして自分をいじめるの?」と言われた時もひどく驚いた。自分をいじめている自覚など微塵もなかったからである。「わたし、何処かおかしいの?」と訊くと「あなたは何処もおかしくないよ。」と言われた。そして創造性の狂気、芸術家がちょっとオカシイのと同じようなものだと軽く笑った。やっぱりオカシイと思ってるんじゃない、と私は心の中で思ったのだった。

 

 

 

 

孤独の中で聴く神の声

 小学1年生の担任は若くて綺麗で優しい若い女教師だった。初めて貰った通知表「お天気係りをしっかりやってくれます。言われたことは忠実にやってくれますが積極性に欠ける面があります。」的確な評価だったのだろう積極性にかけるという評価にドキリとしたのを覚えている。長姉からも「あなたは順子という名前がぴったりね。従順の順子。」と言われた。

 小学2年生と3年生の2年間は老いた女教師だった。私はこの教師に2年間いじめられた。普通は1年間で担任が変わる。だから1年の辛抱と思っていたから翌年も同じ担任と決まった時どんなに失望したかしれない。先生がいじめるのだから生徒達は先生の顔色を伺って皆が敵となった。通学路の木蓮の樹が私の話し相手だった。家庭訪問に来ては私の悪口をまくし立てて帰って行ったと母から聞いた。いじめられていても私が耐えられたのは母が知っていてくれたからである。多勢でなくてもいい、たったひとりの味方がいれば救われるのだとその時知った。この2年間だけ通知表の評価が格段に低い。この評価が一生消えずに残るのかと思うと何も信じられない気がした。先生は天然パーマだった私が髪をといてきたと言っても直毛の女の子を呼ぶと並べて「皆さん、髪をといてこなかった子はこんなにきちんとしているのに夜空さんはこんな頭でも髪をといてきたと言っています。どお思いますか?嘘をついているのはどっちでしょう?」と皆に問い掛けると私を一日中廊下に立たせた。休み時間に皆から体育用具室に閉じ込められ、やっとの思いで跳び箱を使って上部の小さい窓から出て遅れて授業に出ると先生に怒られ理由を聞かれた。私が皆に閉じ込められて出られなかったと言うと「皆さん、そういうことをした人は手を挙げて。」と尋ねた。誰も手を挙げる者はいなかった。「皆さん、夜空さんは皆のせいにしてるんですよ、どお思いますか?」と言うのだった。クラス中が先生に逆らってはならなかった。私と遊ぶ人は先生に睨まれるので私はいつもひとりぼっちだった。校庭でぽつんとひとり立っていると1年生の時に担任だった若い女教師が駆け寄ってきて無言で私をぎゅっと抱き締めた。今思うと私がいじめられているのを知っていたのは母ひとりではなかったのだ。

 とっぷり日が暮れた学校からの帰り道、私は死にたいと思った。そうだ死んだ方がいい。そこまでは頷いていた。けれど「手紙を書いて死ぬんだ。その手紙に、みんなのせいで私は死ぬんだと書いてやれ。」という考えに私「えっ、そんなの狡い。」と咄嗟に言葉が出た。その瞬間だった、悪魔は私からサッと離れた。私は自分の考えではなかったことをそのとき知った。 学校だけでなく家庭でも私は違和感を感じていた。両親の考えにも納得できず、自分とは異質の世界に居場所がない気がしていた。親なのに全く違う考えをしていて親と認めなければならないことが苦痛だった。私は何処から来て何処へ行くのだろうか?と考えていると、私はきっと天から来て天に帰るのだと思えた。薄暗い納戸でひとり訴えた。「神様、どうして私をつくったの?」長い時間、泣いて泣いて泣き疲れた。すると端的ではあるがはっきりと私は聴いたのだ。「この人たちを父とし母として仕えなさい。」という声だった。それは絶対他者からの声だった。私が『仕えなさい』という言葉を自ら発するだろうか?考えられないことだった。そうして、その言葉を何度も反芻した。この人たちは本当のあなたの親ではないが今はこの人達を父とし母とし仕えなさい。と言う意味だと受け取ると急に元気が出て来るのだった。自分がこの人達の子供ではなく天の神様の子だと確信したからである。すると今ここで私を子供として育てている両親は自分の子ではない子を育てていることになる。私は自分の親でもない人達に食べさせ着させてもらっているのだ。そう思うと、これまで両親に抱いていた腹立たしさは、むしろ自分が他所の巣に紛れ込んでいる托卵の雛ような申し訳なさに変わったのだった。

夢の中の教会生活

 恵みの高き峰の讃美歌で目覚めたのは、その2、3日後にもまたあったので結局3日経験したことになる。目が覚めたときの身体の軽さは、このままスヌーピーウッドストックになってパタパタと天に昇っていくような気がしたけれど、いやいや待って、天に昇っていかなくても今ここがもう天国だと思い直す。

 そうして今朝は教会の夢をみた。トイレ掃除や広い事務所のような会堂を片付けたり、庭の大樹の緑の木の実を一緒に摘んだり、20人くらいの食卓の準備を皆で整えたり、古着や雑貨のバザーをしたりして、自転車で家路を急ぐ途中で目が覚めた。目覚めてみると夢の中の広大な空間や大樹や帰路の湿った道を自転車のペダルをこぐ自分が何とも言えない癒しの世界にいたと改めて実感させられた。実際の教会生活を経験しているからこそ見た夢だった。現実では教会から帰る時の私は奈落の底に落とされ自分を持て余し胸がざわつき両耳を塞いで走り出したくなる恐怖に包まれていたのに、夢の中の私は教会からの帰路も楽しそうだった。

 今はYouTube で礼拝の模様を見ることが出来て聖書の学びをすることが出来る。教会の敷居が高い人達や教会を離れた人達への配慮もあるようだ。私が教会を離れたのは教会生活だけの問題ではなく私自身の心理的問題だったと思う。一生かけて治したい、いつか治る日が来ると思っていたがその心理的問題は今もまだ解決していないと思う。ただ救いなのは、こうして夢の中では今は健全だということである。

 若い頃の私はいつも何かに追い立てられ逃げ惑っていた。その頃は毎日のように怖い夢をみていたので眠ることも怖かった。夢の中でさえ不健康だった。ビルの上から広い交差点を見下ろし、ランチに群衆が移動する光景に吐気がしていた。店内から道路に漂ってくる食べ物の匂いに吐気がしていた。高いビルの非常階段を見ると自分が発作的に飛び降りるのではないかと苛まれた。18才から30才まで甘い飲み物や和菓子やケーキをいっさい受け付けなかった。街を歩いていると突然、周囲の人や街が石化し世界が一瞬止まってしまった経験があった。自分の住んでいる世界が宇宙の見知らぬ場所に感じられた。なぜ、あんな体験をしたのかわからないが私は人と違うことだけはわかった。

 死にたい訳ではなかった。ただこの苦しみから逃れたかった。身体から脱出したいと願った。30才を目前にした頃、私は死んだ。その願いは叶ったのだ。精神科でカウンセリングを受けていた私は心理学で救われるのだろうかと考えていた。ただただ眠りたかった。死に急ぐ私は実家に連れ戻された。私のアパートの引越しも家族がしたのだろうに、私はこの頃の記憶が2ヶ月程まったくないのである。飛行機に乗せて家族に連れられて帰った記憶も全くない。気がついた時、母が言った。「気がついた?完全に死んでたよ。顔は土色して血の気は全然なかったし反応もなかった。もう2ヶ月経ったんだよ。ねぇ。」と父に言い、父もうん、と頷いた。私は親をみるから、このまま実家にいさせて欲しいと言ったが父は上京するよう言うと私のアパートを借りるよう姉に頼んだ。私のアパートに届いた荷物は本棚と書物のダンボール箱がふたつだけだった。荷ほどきをしていると小さい聖書が出てきた。よく捨てられずにあったものだと聖書を開いた。カウンセリング通院中も聖書は読んでいたがさっぱり読めなかった。ただ山上の垂訓だけは知っていた。山上の垂訓を読むと温かいものに包まれて眠れるのだった。箴言の『わが子よ、』という呼びかけか言葉となって私に入ってきた。私は悔改めに導かれ泣いた。これまで私が気づかなかった時もずっと導かれていたことを知った。その日から夜な夜な聖書を読む日が続いた。旧約聖書を読み終えると新約聖書も読み終えた。1、2月が経ち聖書を読み終えると、ふと教会は何をしているところだろう?と行ってみることにした。そこはかつて私が寮に入って働いていた会社があった所で、駅前に教会があることを先輩から聞き知っていた。牧師に私が体験したことを話すと驚かれた。「教会に行かず、ひとりで聖書を読んで信じる者とされるのはとても珍しいです。」と言われた。こうして教会生活は始まったのである。

 

 

恵みの高き峰

 朝の目覚め時に讃美歌が流れている。まるで目覚まし時計のように流れている。CDではなく私の内から聞こえてくる。ゆっくり起き上がると自分の身体ではないようで身体の重みを殆ど感じず、とても軽い。「お〜何て日だ!」と言う小峠さんの真逆の意味で私は「お〜何て日だ!」と感嘆した。

 恵みの高きね 日々わがめあてに

 祈りつ歌いつ われは上りゆかん

    光と清きと平和に満ちたる

    恵みの高きね我に踏ましめよ

 恐れのある地に などかはとどまらん

 疑惑の雲をば はやく下に踏まん

    光と清きと平和に満ちたる

    恵みの高きね我に踏ましめよ

 内なる讃美歌を聴きながら目覚めるなんて初めてのことだった。翌日は何もなかったが翌々日また同じ讃美歌で同様に目が覚めた。2回も続くとさすがに気になってしまう。なぜ、この讃美歌なのか?これはどんな意味があるのか?まるで天国にいるような身の軽さと魂の自由とを感謝しつつ思い巡らせた。が、わからない。今はわからないけど、いつか解る時が来るかもしれない。コロナ禍で讃美歌もマスクの下でハミングするだけだった日々も最近は変わって日常を取り戻しつつある。先々日、某教会でペンテコステ礼拝と聖餐式に預からせて頂いた。教会に通っていた頃の良さも思い出した。讃美歌を覚えられたことが嬉しかったし祝祷も懐かしかった。しかし教会から一歩出た途端に以前よく感じた、とてつもない重い憂鬱にまた襲われた。トラウマだろうか?光と闇がジェットコースターのように上下にいざなう。「あなたのはキリスト教ではなく、振興宗教だ。」と言われても跳ね返す強さを持ちえず、そう言われればそうかもしれないと心が騒めき揺れ動いた。自信の無さは今も変わっていない気がする。けれども今はこれで良しとしようと思えるようになった。99匹の羊を置いてでも迷える1匹の羊を探しに行かれる主を知っている。空の空、空の空、いっさいは空であると始まる伝道の書は、また天の下の出来事にはすべて時があると云う。人は神のなさるわざを初めから終わりまで見極めることはできないとある。ただ私は神が教えられることを、その時に受け入れ従うのみである。

 長年、口語訳に親しんできた私は新共同訳より口語訳の方が馴染み深い。口語訳の方が文学的で好きだと言う人は多い。聖書は翻訳だから牧師のように様々な訳で解釈すれば理解を深くすることもあるのだろう。『初めにことば(言)があった。ことば(言)は神と共にあった。ことば(言)は神であった。』と始まるヨハネ福音書。私が生ける神を信じたのは私が聖書を読んでいるというより聖書から神が語られていると、はっきりと解ったからだった。身体は金縛りにあったように動かず、聖書から離れられなかった。それまで読んでも解らなかったのに旧約聖書が預言の書であることとイエス・キリストが生きておられるということを、そのとき一瞬にして理解したのだった。中学時代に恋するほど魅かれたボードレールの詩を雅歌に見つけた。ゾクゾクするシェイクスピアの神秘さも聖書にあった。聖書が最高の文学と云われる所以が解った日だった。

 聖書は霊の書物である。霊によってしか理解しえない。字面を読んでいる時はわからない。神の霊によって教えられなくては理解出来ない。文字はことば(言)となって私達のうちに入り宿るのである。

ヤングケアラーの私

 「どれっ、墓掃除に行こうかね。」と母が言うと長姉と次姉は反射的に動いて私に「あんたの仕事でしょ!」と言い、バケツと杓子、線香とマッチを私に持ってくるのだった。母の墓掃除の為に何度も水を汲むのが私の仕事だった。墓石の苔を落とし花と水を変えて掃除を終えると線香を炊いて母と私は墓前で手を合わせた。母は私を見ず真っ直ぐ前を見たまま「ご先祖様に祈ったからね。」と言った。都合の悪いことは私に押し付けて逃げてしまう姉達。いつも分が悪いことを負わされてしまう私のことを母は御先祖様が必ず見てくださり知っていてくださり守ってくださるからと言うのだった。そして今後、良いことがあっても自分のいさおしではなく御先祖様のお陰だということを忘れてはならないと言うのだった。

 母の耳が聞こえにくいと父が知ったのは結婚して25年過ぎてからの事だった。それまでは知らなかったから喧嘩して「どうしてわからないか。」と殴ったと父は言った。そして当時でも珍しい補聴器を母に与えた。首掛け式でトランジスタラジオに見えた補聴器を見て、「おまえの母ちゃんは参観日にラジオ聞いてた。」ふざけたヤツだと私はいじめられた。が、補聴器など知られていない時代だったので私はただ苦笑した。3才で耳の手術をしてから学校でも聞こえにくかったこと、それが原因でいじめられたことなど母から聞いた為か、いつしか私は母を助けなければと思うようになっていった。母は障害があると娘にまで馬鹿にされると嘆いた。姉達は決して母を馬鹿にしていた訳ではなかったが、父に付いた方が得策と思ったのも事実だったろう。母は姉達の拒絶は赦しても私の拒絶は決して赦さなかった。だから重荷でないといえば嘘だった。けれど、母との接触を避ける姉達と違い、私と母との絆が形作られていった。10才になると共働きの母に代わって私が家事をした。中学生だった姉たちは部活で帰りが遅く、真っ先に帰宅する私の仕事になった。朝起きてバタバタと出掛けてしまった皆の寝床を押入れにしまうと掃除して夕飯をこしらえた。夕飯が出来上がる頃になると姉達と母そして父が帰宅する。それが日課だった。ある時どうしても友達と遊びたくてランドセルを玄関に投げたまま遊びに行った。帰宅する足取りがやましさで重かったのは言うに及ばない。夕飯の支度をしていた母は叱らなかったが、皆で食卓を囲んだ時、疲れた顔、小声で私の耳に囁いた。「あなたがいつも夕飯を作ってくれるから皆で一緒にご飯が食べられる。」私はその後二度と家事をボイコットすることはなかった。

 

 中年になって母はもう片方の耳も手術することになり両方の耳の後ろに大きな術後の穴が開いた。100デシベルしか聞こえない重度の障害になり家の受話器には特別な音量装置が付けられた。それでも聞こえるうちはまだ良かったが85才の脳梗塞で完全に聞こえなくなった。人の声として認識できなくなって雑音にしか聞こえなくなったのだ。その時から母の介護が始まった。母は老後は私に看てもらうと決めていた。車椅子に座っているだけで誰も母が聞こえないとはわからない。遠くから駅員さんが注意しても動じない人は横着者にしか見られない。私はこれまで以上にそんな母の手足とならなければならないと思った。子供の頃から母に頼られるのが辛くもあったが、私が55才になった頃、母から理由を聞いた。母は15才で亡くした祖母に私がそっくりだと言った。あなたと居るとお母さんと居るみたいだったと言った。親子が逆さまで頼られる辛さを感じていた理由を初めて知って納得した。「おばあちゃんはどんな人だったの?」と訊ねると母は目を細くして遠くを見るように「お母さんはねぇ、優しかったぁ…」と言ったのだった。

 8年間の介護生活が終わり、母の希望どおり施設でなく自宅で逝かせてあげられた。母は一瞬ピンクのオーラに包まれていた。あまりの美しさに「お母さん綺麗!」と私が言うと、それはそれは嬉しそうに笑った。それから2日ほど下顎呼吸となり眠るように92才で逝った。

ヤングケアラーの母

 母は教師の娘で八人兄弟の長女だった。明治生まれの祖父は常に真っ白いワイシャツにスーツ姿でハットを被り髭をはやしていた。写真を見ても夏目漱石さながらで、老年期にはそれにステッキが加わった。祖父はとても厳しい人で正座しか許さなかったと母から聞いていた。本当にそのとおりで立膝を見た瞬間、私たち孫も怒鳴られたものだ。当時の教師はかなり崇められていたと母から聞いた。先生、先生と野菜を持ってこられ、先生の子供と大事に扱われたという。そうやって近所のおばさんは3才だった母を銭湯へ連れて行ってくれた。だが、その時に耳に残った湯が災いして母は泣き続けていたという。祖父は日曜日でも生徒たちを桜島登山に引率しなくてはならなかった。後に早く病院へ連れて行かなかったことを祖父はいたく後悔したのだが、3才で耳の手術を受けた時に祖父と二人で撮った写真が残っていた。母は病気がちだった祖母の枕元で裁縫を習っていたという。祖母は母にだけ苦労をかけてすまないと言い続けていたそうだが、そんな祖母も母が14才の時に亡くなると母は6人の弟とひとりの妹の世話に明け暮れた。弟のひとりは川に流されて失い、もう一人の弟は結び紐が列車に引っ張られて片脚がビッコになってしまう。子供だった母が大人のように弟達を庇護出来るわけもないのに母は自分を責めた。やがて祖父は同じ教員と再婚したが、継母と子供達との折り合いは良くなかった。義母は祖父亡き後、入っていた精神病院で世を去ったと聞いている。弟も妹も母が亡くなるまで母を慕っていた。母は姉ではなく母親代わりだったからだ。水道もなかった時代に水汲みに行き、汲み取り便所から肥を汲んで畑にまき野菜を作り幼い兄弟の世話をした話しを何度も聞かされながら、戦時中の話し等あまりにも異なる時代を想像も出来ず、私も姉達も昔話を我慢して聞かなければならなかった。

 祖父は老後、桜島病院の下に家を建てた。ひとりの子供を亡くし、二人の子供を障害者にしてしまったことを生涯悔いていたのだろう。教師時代を終えて恩給を貰うと肢体不自由児施設「和光園」を家の近くに建てたのである。施設を作るのは長年の夢だったと祖父は言っていた。厳しく厳つい祖父の胸の内に秘められた真実を母も初めて知ったのであった。