脳の不思議【次姉と父のこと】

 姉は乳癌だった。肺への転移から最後は脳に転移した。その時から近所の地図が書けなくなった。私が記憶喪失した時の話をすると興味深そうに聴いていた。脳への転移直後、姉は左腕は肘から先が麻痺して痛いと言った。余命半年を切っていた。

 

 

 姉が逝ってから数年後、父はひどい頭痛の為、ひとりでタクシーで病院に行き、くも膜下と診断され、急遽手術になった。手術前に1分間だけ御家族の誰かひとりに面会出来ます。と言われて、父は私を呼んだ。なぜ母でなく私なのだろうと訝りつつ父のベッドに行った。いつ破裂するかわからないので絶対安静だった。父は私が枕元に行くと「脳の手術って言われたから、真っ先に麻痺が残るのを心配したよ。でももう大丈夫だ。麻痺はなかったみたいだから。」と両手をグーパーして見せた。これから手術なのに父は術後だと思っていたらしく母でなく私を呼んだのもうなづけた。私が「良かったね。」と父に言うと「うん、良かった、良かった。」と喜んだ。

 イエスは云われた。「あなたがたの信仰のとおりになれ。」先取りして喜んでいるのだから父は麻痺が残ることはないだろうと私は思った。術後も全く麻痺は残らなかった。手術が終わった直後も1分間だけ面会が出来た。耳に障害のある母は補聴器を付けていても聴き取れないからと私に一緒に来て聴いてくれるよう頼んだ。母は父を見るなりベッドの父にしがみついて激しく泣きじゃくった。そんな母に無表情で目を落として父が呟くようにだったが、しかし丁寧にゆっくりと、ひと言だけ語った。「もう少し夫婦でいましょうね。」母は面会後も泣きじゃくって興奮していた。私が父の言葉を母に告げるとびっくりして「そう言ったの?ほんとにそう言ったの?」と、また号泣した。今度は嬉し泣きだった。

 父が手術して頂いた脳外科病院の院長は私と同年だったが天才と言われた脳外科医だった。病院に私が到着するや否や、見ず知らずの入院患者さんから「ここの先生に手術してもらったら、もう大丈夫。」と言われた。手術の説明を受けた時も「私は失敗したことがありません。」と、何処かで聞いたようなセリフを言われた。開業して2年のその病院は、その医師で有名で、休憩室には海外留学から最も速く外科部長になった経歴などが貼られていた。高校の後輩は「いいわねぇ、私の父も先生に手術して欲しかったけど、まだ大学病院勤務でここが開業する前だったから残念だったわ。」としきりに羨ましがった。

 休憩室でご主人のリハビリをしていた奥さんは、術後、漢字は読めるが、ひらがなが全く読めなくなったご主人にひらがなを教えていて「まるで中国人」と言いながら教えていた。そのとき、脳の不思議を垣間見た気がした。

 父の入院中、姉は「どちら様ですか?」と言われ、退院後の通院では「何処に連れて行くんだ?初めて行く病院だ。」と母に言って困らせた。手術したことも覚えていなかったらしい。