脳の不思議【記憶喪失】

41才の頃、私は一部だけ記憶喪失になったことがある。通勤途中の朝、雪道で転倒した。南国生まれで雪道の歩き方も知らなかった私は、なるだけ雪を避けて砂利が見えている道路にぴょんと飛び乗った、その瞬間だった。つるりと滑ると転んで後頭部を打った。雪が無いと思った所は確かに雪は無かったが凍っていたのだ。あまりにも透明で氷が張っているなんて分からなかった。私は気を失っていたらしい。軽自動車を停めた女性の「乗って!」という声で雪の上に寝ていたことに気付いた。「送ってくわ、会社は何処?」社名を告げた。車だとものの3分程で着く距離なのに頭が痛くて座った姿勢を保てずシートに横になった。会社の門で降ろしてもらって自分の名前を記入した。そこまでは普通だった。が、3棟もある建物の何処に行けば良いのかわからない。愕然としたが、とにかく歩き出した。初めて見る廊下だった。幼児が親に手を引かれて歩いている感じだった。子供は親に全幅の信頼を置いて手を引かれているだけで何も考えない。ただ連れて行かれるままキョロキョロよそ見しながら歩いている。何処に行くんだろうとも思わない。すると自分の名前が大きく書かれたPCが見えた。女性がひとりいたので「あ、ここ座っていいんですか?」と訊ねると良いと応え首をひねる。自分の席なのに座っていいかと訊かれたので妙だと思ったらしい。私にどうやって来たのかと訊ねるので駅から歩いて来たと説明するが転倒した所で記憶が途切れている。何度訊かれても転倒した所までしか覚えていない。そこからどうやって来たの?と訊かれる。私はわからないと応えた。思い出そうとしても思い出せなかった。彼女が私の頭をまさぐって上司のところに行くと上司も走って来た。私の頭には打撲跡があったらしい。「私、病院に連れて行きます。」と言って門まで来た、その時だ。あ、思い出した。見ず知らずの女性が車で送ってくれたんだった。と思い出して喜ぶ私に彼女は「逆に怖いわ」と言った。同じ場所に戻ると無くした記憶を思い出すというのはホントだった。

 診断は「転倒の衝撃でヘルメットの中に入っている豆腐がぐちゃぐちゃになって一時的に記憶の回路が切れてしまっているだけだから、じき戻りますよ。でも今夜は高熱が出るから救急車呼んでね?」と言われた。上司から仕事は早退して買えるように言われ、急に不安に襲われた。オデコの辺りに5ヶ所程の住所が並んで見えた。それは全部私の住所だと判ったけど、今、このうちの何処に住んでいるのか判らなかった。自宅に帰り着けるのか不安だった。定期券があったので、この駅らしい。とにかく駅まで行ってみることにした。会社から駅まで徒歩15分なのに判っているはずに方向が違うのか2時間も延々と歩く続けた。やっと電車で1時間半乗って駅に着いた。が、自宅はわからない。顕在意識ではわからなくても潜在意識が知っているのだろうからと歩き始める。すると自宅に着いた。やはり連れて帰られたという感じだった。

 その晩、診断どおり高熱が出た。しかし首はむち打ちの痛み、頭は割れそうな激痛でウンウンうなされるだけで結局、救急車を呼ぶことは出来なかった。