内から見ると【若見え論】

 実年齢より若く見られると私は言ったが、それは外部からの視点である。それでは内側から私に外部の人がどう見えるのかというと、若干ではあるが、やはりその人の実年齢より年上に見えるのである。既に中学生の頃に気付きつつあった。同級生の立ち居振る舞いが非常に大人びて見え自分が恥ずかしくてならなかったからだ。同級生らや周囲の人々は卒業すると結婚して家庭を持ち親になっていき、この世を駆け抜けて行った。何も得られず遅々として捗らない人生を送っている私と違って、得て経験して「それじゃあ、お先に!」と早々に去って行くようで私は羨ましかった。短くても満たされて充実した人生と、欲求不満の状態でだらだらと生きながらえる人生とどちらが幸せだろうかという問いは当然ながら前者を羨むことになった。私達は目的をもって生かされていると私は思う。さすれば他を羨む必要はない。おのれの分を達成するのみなのだろう。が、理屈は理屈で、羨ましいのは羨ましいのだった。

 

 30代で10才年下からアプローチされた。40代で17才年下、60代では30才以上年下、と年齢差はどんどん開いていくのが怖かった。買い物していると年下の若いお兄ちゃんが負けてくれる。会社では親子ほど違う男の子が「僕、持ちます。」と荷物を持ってくれる。「いいわねぇ、そんなことされたことないわ〜」と言われても私はむしろ他の人が羨ましかった。神に定められ何処から見てもなるべくしてなったと思える夫婦、そんな伴侶を与えられている人達が羨ましかった。

 やがて大きな年齢差も徐々に違和感がなくなっていった。かえって話しが合うと思うようになっていった。同年代と話すと同等に話せない感じがしていた。年齢差が親子ほど開いていっても納得できたのは、10才年下も17才年下も私の年齢を足早に通り越していくように思えたからだった。

 国際結婚してアメリカに住んでいる姪がいる。次姉が乳癌になった時、牧師から礼拝のカセットテープを頂いた。姉は心に入って来ないと首を横に振ったが、食いつくように聴いていたのが姪だった。留学生の証が姪の魂に響いたのだろう、15才の姪はアメリカに行く、アメリカに行くと言い出した。高校までは日本にいるようにと私は言い、姪はその通りにして大学は海外に渡ったのである。そうしてアメリカ人と結婚した。「私も国籍とか年齢差とかのブロックを外さないから結婚出来ないのかもしてない。ずいぶん年下に好かれるのよね。」と話すと「どうして付き合わないの?歳なんて関係ないんだからね。今度出会ったらちゃんと捕まえるのよ!」と姪に叱られ「はい」と応える私だった。

 牧師から頂いたカセットテープのように、この人にと贈られたものが別の人へ繋がっていくのはよくあることだ。神の恵みは受け取った者に行くからだ。伝道の業も、私達の思いでなく神の御心のままにと祈るので、私達は何処にどう繋がっていくか知らなくても良い。ただ神の手足として持ち運ばれれば、それでいい。

 私は最近はちゃんと年相応になってきたんじゃないかと思う。シニアになるとさすがにシニアの身体つきになってきたし、何より心が若くはないのだ。一生追いかけてきた自分探しが落ち着いたのもあるだろう。多くのしがらみから解放される時が近づいてくる。嬉しいことだ。