運命と宿命

 よく宿命は変えられないけど運命は変えられると云われる。どんな家に生まれてくるかや性別などは選べないが、その後の人生は選べるという。変えられる部分と変えられない部分を半々と言う人もいる。松下幸之助氏は変えられるのは1割で9割は変えられないと言った。しかし私は変えられるものなどひとつもないと思っている。親鸞と同じだ。

 統合失調症を発症した姉は、思えば幼少時から兆しはあった。彼女だけ家族と一緒の家に住んでいなかった。私の出産時に姉を叔母さんに預けたのがきっかけと聞いた姉は私を恨んだ。けれど母は幼い姉が赤ん坊の私をとても可愛がったと話した。上の二人が年子で仲が良かった為、私は叔母さんの家で暮らす姉に会いに行って遊んだ。姉が一方的に語り私はいつでも聞き役にされた。中学時代は私の方が背も高く大人びて見えたので近隣の人は私の方が姉だと思っていた。叔母さんが「いいや、こっちが妹。」と言うと誰もが信じられないという顔をされた。居て欲しくないのと可愛いのと、姉は妹への自分の二面性に苦しんでいた。自分だけが家族と一緒に暮らせていない事実に苦しんでいた。商いの叔母の家を手伝わなくてはならないことに苦しんでいた。そうして何よりも頭が常にどんよりと重くてスッキリしないことに苦しんでいたと思う。両親は手放している負い目からか姉には腫れ物に触るように優しかった。姉はお姉さんだからと我慢させられることはなく逆にお前は親元に居るのだからと私の方が我慢させられた。両親のそういう接し方は、かえって姉に良くないと言ったことがあるが二人共激昂するだけだった。姉の美化した両親象を正すべく両親の本当の姿を姉に話しても、やはり「おまえは何て贅沢なんだ。」と怒るだけだった。姉の病は成るべくして成ったと思うしかない。誰も好きこのんで病を選択したりはしないだろうから。誰の手落ちでも誰の所為でもなかったのだろう。

 自分の内に幼い頃から芽生えていた性別への違和感に苦しんでいたLGBTの人達はどうなのだろうか。 突発的な事故に遭遇した人や筋萎縮性側索硬化症(ALS)になった人達はどうだろう?先天性の病を持って生まれてくる子や精神を病んでいく人にどれだけの選択肢があるだろうか。生活習慣病は注意で防げたか?いや生活習慣病とて選べやしない。なりたくないと思っても成ってしまうことを阻止できるだろうか?自分の努力で決断して選択したと思っても、そう出来た背後には見えざる導きや力があってのことではないだろうか?そう出来なかったのも同様ではないのか?そうであればこそ出来た人も驕ることなく出来なかった人も憂えることなしと言えるのではないだろうか。信じることができた人も信じることができなかった人もそうなるべくなったのだと思う。母の胎内で骨や肉が作られて魂が宿るようにされたとしても私達が自己を意識するのはずっと後の事である。気がついたときには生まれていた、と言った方がいい。私達はあまりにも無力である。自分の力で何を成し得ようか。絶対的に無力な私は神を恨んでいた。全てが神の手中にあって転がされる駒のひとつのように感じられた。神の絶対的主権は変わらないが、人格を持った神を知らなければ私達に救いはない。幼少時の決め事に「神様の言うとおり!」と決めていた。信仰がないと神様の言うとおりになるのが怖いが、信仰があると神様の言うとおりになる安心感に変わる。たとい神に祈ることが出来たとしても、それすら神の一方的な恵みである。そう思えば、力んで生きなくとも神のみ前に安んじていられる気がする。