二つの詩

 中学生の時、生徒の詩が教室に貼り出されていた。ある男の子の詩と女の子の詩にハッとさせられた。男の子の詩は「父ちゃんと母ちゃんがケンカした。僕たちは布団に潜った…」と始まり夫婦喧嘩が終わるまで布団の中で見ている様子、ケンカが終わって布団から出るところで詩は終わっていた。最初の出だしから明るいのだが家庭不和の暗さなど微塵もない。親のケンカをこんなふうに明るく捉えられる男の子に驚嘆した。親への愛情で包み込まれている詩全体の温もり。私はこんなふうに両親の喧嘩を見たことがなかった。私にとって両親のケンカは不幸の最たるものだった。母が背中を丸めて座っている、その背に父は焼酎の一升瓶を振り下ろした。私は伯母の家に助けを求めて走った。翌日、青あざになった母の身体中に父が湿布薬を貼っていた。そんなことをするなら殴らなければ良いはずなのに。自分で殴っておいて湿布薬を貼ってあげる、理解できないことだった。

 両親のケンカを幼い私が記憶していた。コタツの向かい側に母がいて左側に父が座っていた。父が母に何やら怒鳴りつけ、母がこたつ台に突っ伏した。私は母のところに行って「泣かなくていいよ。」と母を慰めてあげようと思い歩き始めた。私は腰まであるコタツ台につかまり立ちして歩いているのでコタツ台を離れたら尻もちついてしまう。だからコタツ台に沿って父の前を通らなければならなかった。父は何だ?という顔で私を制すが私は何度も母のところへ行こうと試みる。そうして時間をかけてやっと父の膝の前をコタツ台沿に通過して母の元へ辿り着いた。母は私に気付いて顔をあげ私を胸に引き寄せた。この時の自分の心情を今でもはっきりと覚えているが、それは父への嫌悪という感情もなく、ただ泣かなくていい、全然泣くことなんかない、という無に近い感じだった。やがて小学生の中頃になると夫婦喧嘩を嫌悪するようになっていった。幼少時には食物の好き嫌いもなかった子に善悪を知るようになる罪が入っていったように。

 

 女の子の詩は私の将来というタイトルだった。女の子は憧れるたくさんの職業を次々と思い描くのだが最後に「でも、やっぱり私はお嫁さんがいい。」と締めくくるのである。なんて可愛らしいのだろうと羨ましく思った。この女の子は将来きっと可愛いお嫁さんになるに違いないと確信させた。中学生になると古文を習い始めていた私は万葉集の 「信濃路は今の墾道刈株に足踏ましむな沓はけわが背」に、こんな結婚をしたいとそっと願っていた。たわいのない静かな日常のひとコマ、そんな結婚に憧れた。しかしそれと同時に私は伴侶を与えられず、望んだ結婚なんか出来ず明けない夜の一生を一人で生きていくのではないかとも感じていた。

 

 二つの詩は私の魂の深い所に残っていて私の人生を色濃く象っている。なぜなら浮気の多い夫、暴力をふるう夫、家が一軒建つほどの借金をこしらえる夫に苦しんだ母は手に職を持たず夫から自立出来ず、我慢していくしかない己の弱さが口惜しかったので、娘には不本意のまま夫に従わざるを得ない辛さを味わわなくて済むようにと、ひとりで誰にも頼らずに生きていけ、手に職を持て、と言い聞かせ続けたのである。私は結婚したいという思いがあっても結婚出来ないという宿命のようなものがあった。幸せな結婚は出来ないのだと常に潜在意識に足止めされていたと思う。