泉谷しげる大先生

友達に泉谷しげる氏の大ファンがいて「泉谷しげる大先生」と呼んでいた。彼女は私に泉谷しげるのLPレコードをプレゼントしてくれた。春夏秋冬はもちろん大好きだったが、もう1曲私の好きな曲がある。『老人革命の唄』だ。私はこの歌に元気を貰っていた。時代が変わって歌詞も合わなくなってきている箇所があるが、久しぶりにYouTubeで聴くと声が若い。歌詞の中に♪お願いだ厚生省のダンナがた、わしらもホームドラマに入れてくれ♪とあるが、その願いは聞きとどけられ泉谷さんは歌詞のとおりにホームドラマに出るようになった。彼はホームドラマに出ている今の自分と、この歌をどう思っているのか聞いてみたい。

 

立つ鳥跡を濁さず

私の姉は43歳に乳癌とわかって3年後に逝った。癌とわかる7年くらい前から体調は良くないのがわかったのに、せっせと家のローンを残さないよう支払いを終えて逝った。なぜ、そこまでする必要があるだろうか家族みんなの家なのにと、そのときは思った。後で姉の夫だった人は言った。あの家は彼女の為のものだった。だから彼女の希望だけで建てたものだと。姉はキッチンに立ったとき自分が想像していた場所に今立っていると感じた、と話していた。引越して来たら周囲を散策して歩いたと嬉しそうに言った。子育てしながらパッチワークを作って絵に描いたような結婚生活だと思った。ただ、老後の自分が夫婦で一緒に居る風景をいくらイメージしようとしても全く想像できないのと言っていた。キッチンに立つ未来は実現しただけに老後がイメージ出来ないのは不安だっただろう。やがて数年後に姉の夫だった人は再婚して新しい家を買った。その家は彼だけの好みだと言った。姉は自分の家だったから最後まできれいに片付けて去ったのだと納得した。自分はどこまで出来るだろうか?と思った。独り身では委ねられる人はいない。私の理想は淀川長治氏だ。映画の最後に「それではサイナラ、サイナラ」と言っていたあの人だ。淀川氏は単身でTVでも活躍されていたこともあって、かなりの財産があったという。それで老後は一流ホテル住居だった。そこまで財産のない人は出来ない事だけど、数年前、久留米のビジネスホテルで女性が亡くなったとニュースが流れた。女性は3ヶ月ほどホテルにいたという。一度救急搬送されてホテル側から入院を勧められたが断ってホテルに滞在し続けた。彼女は自分が余命いくばくもないことを知っていた。住居も既に引き払っており、ホテルで最後を迎える事を選んだのだ。少なくとも死後数ヶ月も知られずに迷惑かけてしまう悲惨さは回避出来る。彼女のバッグに遺書らしきものがありホテル代と葬儀代とに充分なお金が残されていたという。住居の近くのホテルではなく、わざわざ遠くを選んでいたという。ニュースでそんなことまで詳細を聞くのも珍しいと驚きながら、ふと彼女も淀川長治氏の載った雑誌を見たのではないだろうか?私と同じことを考え尚且つ実行したんじゃないの?と思った。この世に生を受けた時も、この世を去る時も結局のところ誰かにお世話にならざるを得ない。それでも、人様へ迷惑をかけることを最小限にとどめたいと思ったのだろう。女性はまだ中年で高齢者ではなかった。ホテルにも警察にもいっさい迷惑はかけなかったと言われた。こういう引き際をする女性はどんな人生を歩いたのだろうかといつまでも心から離れなかった。

B.C.とA.D.

高校2年の時、新しく世界史の教師が赴任してきて初めての授業だった。紀元前と紀元後から始まり先生は大きい声で「ここから世界はまっぷたつに分かれてる」と言うと黒板をまっぷたつに切るような勢いで白いチョークで真っ直ぐに縦線を引いた。こっちはB.C.でこっちはA.D.だ。こっちはbefore Christ キリスト以前、こっちはanno Domini ここから主の年で僕らが今居るのはここだ!このラインは、いいかぁ、キリストが生まれた時ではなくキリストが死んだ時なんだ。ここから世界は変わってるんだ。」と言った。私は日本史を思い出し、小田信長や徳川家康が死んでも世界が変わった訳ではない。それは歴史上の1人の人物が亡くなっただけだ。なのに何故キリストが死んだだけで世界が変わるのだ?ただの人間ではないのだろうか?と思っていると先生が言った「イエス•キリストは人の子であり神の子である」私は面くらった。いったいどういう意味?どっちなの?そこにだけ引っかかって後の授業は耳に入らない。授業が終わるやいなや廊下に出た先生を捕まえて尋ねた。「先生、今イエス•キリストは人の子であり神の子と言ったでしょう?あれはどういう意味ですか?」すると先生はうーむと頭を掻いて困っていたが、「僕はこれ以上は応えられないなぁ。あそこにね、教会があるから、そこで訊くといいよ。きっと僕より明確に教えてくれると思うよ。」と街の方を指差した。私の高校は普通の県立高校だった。その街にはたったひとつカソリック教会があり幼稚園も兼ねていた。高校時代、寮生活だった私は寮母さんが教会に行っていたのを知っていた。毎週、教会に持っていくお菓子を焼いたりキャラメルを作ったりしていて包むのを手伝っていた。楽しそうに作っているので「教会ってそんなに楽しいの?」と聞くと「楽しいわよ、今度行ってみる?」と言われたので行く約束をしていた。しかし、教会に行く前日に父から訃報の電話が入った。叔父が亡くなったから外出しないでいるようにという連絡だった。

叔父は旧制一高から国立大に行き教職課程をえた。教員だった祖父は自分の希望を叶えてくれた長男が自慢の息子であった。しかし叔父は教員にはならず小さな電気店を営んでいた。私が高校1年の時、父から「叔父さんがおまえから手紙を欲しいって言ってるよ。葉書でもいいから出してやってくれるか?」4人姉妹の中で末っ子の私を叔父はいちばん可愛がってくれた。何を書いて良いかわからなかったけど一応書いて出すと父が「叔父さんがおまえから葉書が届いたって、そりゃあ喜んでたよ。ありがとな。」と言ってきた。その数ヶ月後に叔父は自死した。私は葉書の最後の1行を悔いても悔やみきれなかった。自分が殺してしまったと思った。余った最後の空間を埋める為に私が書いた1行はこれだ「この葉書は最初で最後の葉書です。」何故そんなことを書いたのだろう。言葉の持つ力の恐ろしさは小学生の頃から知っていたはずだった。訃報のあった夜、夢を見た。祖父が高い門の前に居て、ここに入ってはいけないと言いながら門を開けた。中庭に集団が歩いてきて一人の人が手を差し出した。私は握手した。それは叔父だと何となく思った。握手すると皆が背を向けて帰って行ったので私も門に向かった。石造りの建物の上の窓から大勢の人が見下ろしていた。あれは教会のようでもあり精神病院のようでもあり中世の古城のようでもあった。

リアルで怖い独居老人の夢

昨日、夢を見た。いつもは「なんか夢見たなぁ」くらいしか覚えていないのにリアルで怖い夢だったので目覚めても怖さが残っていた。

90才過ぎくらいのガタイのいい男子独居老人が広めの一軒家に住んでいた。私は初めての訪問らしい。老人はあまり気乗りしない様子だが買うことに決めたらしく「80万でいいんだな?」と私に訊いた。私はこの仕事についてよく知らない新人らしかった。先輩の女子スタッフに確認すると86万よと言われ、老人に伝えに戻ると老人はもう書類に分割料金を書いていた。80万でいいんだな?と言いながら書類には初回15万で残りの3回が各20万と書かれてあったのだった。合計だと75万円だ。そこへまたスタッフが二人きて1人の男子は浄水器の設置係だった。私はその時初めて86万円の浄水器を老人に売っている仕事をさせられていた事に気付き愕然とした。老人は正しく書いていると言って書き換えを拒むので設置係はしようがないなと苦笑して商品をしまい始めた。ボケ老人だから仕方ないとスタッフは一応引き下がったけど、私は内心ホッとしていた。それよりも自分がそんな仕事の片棒を担いでいるという立ち位置がショックだった。老人はボケていても見えざる何かで守られているのか、ボケのフリをして危機を回避したのか?私には前者のように見えた。目覚めて怖かった。独居老人は狙われる。独居老人にはもう希望がない、欲しい物もさしてない、頼れる若者もいない。若い人が来てくれるのは物を売りつける時だけだけど、それでも誰とも喋らない淋しさはほんの少し癒される。バスのステップが自分には高くなってバスに乗れなくなった母もコンセントプラグひとつを買って来てやると言われて車代までと1万円渡していた。老人は利用されても仕方ないとただ諦めている訳ではない。老人の見る夢は単にうたかたではないからだ。あの世に金を持って行けるわけじゃないけどバラ撒くほどの金があるわけじゃない。人に動いてもらうには金が要る。そして金を払えば、もう誰も来なくなる。そんな独居老人の孤独が静かに泉のように湧き上がってくる。この夢をどう解き明かしすれば良いのか?オレオレ詐欺以外にもこういう詐欺まがいの高額商品の売り付けは、あちらこちらで起きているはずだ。羽毛布団、印鑑、消化器、ブルーシート、非常用充電器、何社も新聞をとっている老人もいた。「お願いだから新聞とってくれって若い人があんまり頼むから可哀想になってなぁ」と言った老人も実際にいた。あの独居老人は自分なのか、その方がまだ詐欺の片棒を担ぐより救われると思えた。『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。』(使徒2章17節)最後の「老人は夢を見る」が、私は最近よくわかるようになった。老人は希望がない、なのに年をとるほど幸せになる夢を見るのだ。この夢は眠っている時みる夢のことではない。老人は孤独で淋しく希望がないけれど不幸ではないと思う。「人はただ一度死ぬこととその後に裁きを受けることが決まっているように」(ヘブライ9章27節) 老人が不幸でない理由はこれまでよりももっと目前に救いが迫っているからだ。「自ら死に急がなくてもその日は必ずやってくる。ただ待てば良い」私の両親はキリスト者ではなかったがそう言ってにっこりと最後を全うした。それは私には幸いなことだった。老いるのは怖いけど若気の至りも怖い。おお、なんてリアルな夢を見るんだい、せめて眠っている時くらい幸せな夢を見させてよ。

小さな冤罪(1)

中学生の時、1人の男の子が授業中も休み時間も凄い目で私を睨みつけていた。理由がわからないので本人に聞きたいのだが近寄ると更にスゴい形相になり威嚇された。その男の子の友達であろう別の男の子達に訊いていって、ようやく原因究明に辿り着けた。何かで教師に叱られたらしい。その時、どうして先生が知っていたんだ?といぶかるその子に友達は「どうせあいつが先公に告げ口したんじゃねえのぉ」と言ったところ男の子はそれをそのまま事実と信じてしまったというのだ。叱られた内容すら知らない私は殺してやろうか、テメェというような睨みを浴びせ続けられた。私は友達という男の子に、ただ自分の思いつきで言っただけで事実ではない事をその子に言って!と頼んだ。私の言う事など耳も貸さないのだから信じているその友達の言葉しか彼は信じないだろうから、友達から根拠のない軽口だったと言ってもらうしかなかった。友達の男の子は自分の何気ない軽口がもたらした事実に真っ青になっていた。友達の一度の否定でも彼はなかなか納得せず、数回の説得で何とか怒りは拠り所を変えたようだった。数日後、やっと私は根拠のない睨みから解放されたのだった。

 

 修学旅行にはカメラは持ってこないようにと言われているからと父が持っていけというカメラを断った。お小遣いも決められた額より余計に持って行けと言ったが私は断った。父は全くお前は融通が効かぬ奴だ。学校のルールなんてクソ真面目に従わなくていいんだ。と父が言った。だが私は要領の良い子ではなかったから父がルーズに思えて嫌だった。決められたルールに従えないほどの強い欲求も願望もルールに対する反発も無かったからだ。ルールに反発しているのは父の方だった。宿泊先に着いた夜だった。先生が違反者がいないか持ち物点検すると言い各部屋を巡回してきた。あろうことか私のリュックの中にカメラが入っていた。父がコッソリ入れたのだ。教師は顔色を変えて私を睨んで何も言わずに回収した。私は咄嗟に弁明するという事が非常に苦手だ。それは言い訳にしか受け取られないだろうと思うし、それよりも第一に急展開に頭が真っ白になって回らない。この前の精神科の時と同じだ。先生は父とは仲が良く、よくウチに遊びに来ていた。二人で将棋を指している時、私はカメラのことを先生に言おうかとよほど考えた。しかし言えなかった。父は既に他界した。もし先生も他界していたら私の冤罪は永久に葬られたことになる。冤罪をかけられた時すぐに違う‼︎と反論できない自分の愚かさが口惜しいが、未だ出来るようにはなっていない。もしかしたら自分の思いも寄らないところでビックリするような冤罪は幾つも背負っているのかもしれない。はからずも自分も知らず誰かの冤罪を信じ込んでいるのかもしれない。

平歩

数十年も前にコンサルにいた時、中国人の陳さんという人がいた。休憩室でのことだった。子供が産まれて「平歩」という名前をつけたんだと静かだが嬉しそうに言った。「ふ〜ん、平凡な名前ね。」と言うと陳さんは言った。「昔、中国で水の上を歩く人がいてね…平歩は水の上を平地を歩くように歩むと云う意味なんだ。」「へ〜〜〜、すごい名前ね。」陳平歩くんは、何処かでもう成人している年だ。

心のともしび

8、9才の頃、カムカムエブリデイのように私も時間が来ると決まってラジオにしがみついて聴いていた番組があった。「福音ルーテルアワー心のともしび」であった。音楽が鳴ると『暗いと不平を言うよりもすすんで灯りをつけましょう』と毎回同じメッセージが流れ「皆様こんにちは、今日は聖書のヨハネ福音書○章○節から河内桃子さんの朗読で…と始まるのであった。朗読の後に聖書の説明が始まるのだが私はつまらなくて決まって眠くなるのだった。やがてルーテルアワーが終わると『バロック音楽の夕べ』が始まり、それが終わるまでが私のルーティンだった。バロック音楽の夕べというくらいだから当時の放送時間は夕刻だったに違いない。「徹子の部屋」で河内桃子さんは長い間この番組を続けておられたと聞いたが、心のともしびは今でも続いていると知って驚いた。ラジオは変わらず存続しているようだがスマホから、あの何十年も変わらぬ聞き慣れたメロディとメッセージが流れてきた。