当たり前ということ

小学生4年生の国語の時間に先生が「ここのとこで何かわからないことがあるか?」ときいた。誰もが黙っていると「お前はどうだ?」と私は名指しで訊かれた。それならと少し気になっていたことをぼそっと言った。それは「当たり前のことだとあるけど当たり前って何ですか?」すると教師はびっくりして「当たり前は当たり前じゃないか、なあ⁈」とみんなに笑いながら大声で言い皆が爆笑した。私は教室中で笑いものにされた。「当たり前は当たり前だよ、そんなの説明出来るか‼︎」尚も教師は変なヤツだなと呆れていた。この時の私の哲学的問いは未解決のまま私の中に残った。「どうして当たり前の事が出来ないの⁈」とか「そんな当たり前の事を訊くなよ!」と言われるたびに私の中で燻っている火種がポッと明るく灯るのだった。教会の人に言われたことがある。「聖書は当たり前のことが書いてあるだけよ。」と。宗教に何か特別さを期待すると危険である。この歳になってやっと少し解ってきた気がする。産まれてから成長する過程も大変だった。当たり前と言われている事が実はショックの連続だったはずだ。思春期を迎え大人になっていく過程も大変だった。家族の中で衝突したり親に反発したりしながら家庭を維持していくのも大変だった。当たり前と言われていることを当たり前にやり過ごすことがどんなに大変なことか。年の順番に死んでいく訳ではない。成長していくのが当たり前ではない。当たり前と思っていたものが突然音を立てて崩れてしまう。だがそれもまた当たり前の事なのだ。当たり前というのは平穏な日々の代名詞のように使われるが突発的な危機に襲われた時にも、それも当たり前のうちのひとつに過ぎないのだと誰も教えない。聖書には「あなたがたは風が吹けば飛ばされてしまう塵のようだ。」とある。人の生のはかなさが書かれている。「空の空、この世にあるいっさいのものは空である」と始まる『伝道の書』。この儚さの中に一度埋没し、そこから新芽が出るように🌱やっと育つ希望だけが本物なのだろう。私達は空(くう)や儚さに耐えきれず絶望する弱さを誰もが持っている。明るく力強い言葉を聞いて元気が出る。悲観的な言葉など聞きたくない。そんなことを当たり前だと受け入れる気にはなれない。しかしまた元気さがかえって重くのしかかり光が眩しすぎて日影に身を寄せたくなる時がある。キルケゴールは絶望は死の病と云った。雲の上はいつも晴れているのは当たり前?開けない夜はないのは当たり前?太陽が壊れることも欠けることもないのは当たり前なのだろうか?少なくとも自分の生が果てるまでは起こらないだろうと当たり前のように思っている。