だらりだらだらインプット

しばらくブログを書いていない。

何をしていたかというと、もっぱらYou tube を見ていた。活字より画像の方が楽だったのだ。文章を書くことに疲れてしまった時に画像はなんて楽だろうか。TVを見ているのと同感覚で見れる。自分の中にはたいしたもんもありゃしないけどYou tube サーフィンはとめどない。しかし、それも少し飽きてきた。もともとは変形性膝関節症と坐骨神経痛を治そうと見始めたYou tube だった。最近やっと9割方治癒してきたが2023年4月25日に発症したので約1年間かかったことになる。正直ブログどころではないほど痛みに耐えていた時期があったが、理学療法士さんや整体師さんや整形外科医さんに随分と助けられた。歩けない身には何と有り難かったことか。短期集中講座でも受けたように専門用語も覚えていった。

 

2022年10月には母が逝った。

2023年もしもの時の遺言書をアップデートしながらブログを始めた。

2024年3月、つまり先月、施設入所していた姉が逝った。これで6人家族の残りは2人になった。

 

26年前に、もうひとりの姉も他界している。私はこの時、真実なんて何処にも無いと実感した。40代で逝った姉との接点は何もかも泡沫のように消えた。死んでしまえば残された人達の語る言葉しか残らない。死人に口なしとはよく言ったものだ。残った人の語る記憶も個々様々だから、もうどれがホントでどれが盛ってるかなんて分かったもんじゃない。私達が見ている事実、信じてる事も変容していく。まあ、もともと見えてる事実はどれも確かなものなんて一つも無いのだろうけど改めて底知れぬ虚無感に襲われる。と同時にまた重責からの解放も感じる。そう、そうそう、私達の行く手にあるのは解放だけだ。若い頃は目の前の現実が息苦しくて、この世から脱出したいと切に願った。「♪ねぇ可笑しいでしょ若い頃、ねぇ滑稽でしょ若い頃•••」満たされない願望の苦しさから逃れたかった。欲望のままに行動することにブレーキがかかり、どれだけ人生を失ったことか。高校の親しかった同級生の6人の仲間、知る限りでは3人は他界した。他にも鬼籍となった同窓会名簿を見ては驚く。

 

 やっと人並みに歩けるようになったけど気付けば一筋の職も失って暇な年金受給者となっていた。前は生涯現役を願っていたのに、いつのまにか仕事への意欲は削ぎ取られて働きたくなくなっている。これからは幸せになるYou tube でだらだらインプットしながらブログでちまちまアウトプットしつつ余生を過ごすことに致しましょう。

タブーへの勇気

たしか平成20年頃だったと思う。私は厚木駅の仕事「駅エレベーター設置工事と駅トイレ改修工事」に携わっていた。小田急線は全駅にエレベーターを設置しなければならないことになっていてトイレは普通トイレ改修工事の他にマルチトイレも新設した。設計図面を描きながらオストメイトを使う人がいるのに普段は何も考えずに電車に乗っている自分に気付いた。

 そんなおり従姉妹が入院したと聞いて見舞いに行った。大腸癌だった。軽い症状を市販薬で対処していた為、病院に行った時は直ぐに手術になり肛門を残すことは出来なかった。相部屋の方が「夜中、ずっと泣いていらっしゃいます」と話してくれた。術後も縫合した肛門の痛みを訴えた。そして「死にたい、死にたい」と泣いた。私は病院から帰る道々、祈り続けた。従姉妹が癌から回復しますようにから始まり、祈りはどんどん変わっていく。自分の願いから神のみ旨を聴くところまで祈りが変えられた時だった。駅から自宅までのちょうど中間地点で幻を見せられた。1m巾ほどの細いトンネルを私は歩き進む。トンネルの天井にやはり1mおきに穴が空いている。穴はひとりひとりの人を現していた。少し先を見るとひとつだけ天井から水が滝のように落ちている穴があった。そしてそこに辿り着いた頃、私はその穴が従姉妹のことを示していることに瞬時に気付いて言葉を失った。神からの祈りの応えだと確信した。そのとたん号泣しながら暗い夜道を家まで帰った。これは夢を見ているのではなく歩きながら祈っていた時の一瞬の出来事だった。

 手術は成功して術後の経過も良く従姉妹は退院した。退院後、泊まりに行った時、並んでる寝床で従姉妹が夢を見たと話してくれた。既に他界している両親が来てくれた夢だと言う。「心配してくれたのかなぁ」と嬉しそうだった。

 以来、私は従姉妹が去って行く前提で話していたらしく、従姉妹のお姉さんから「縁起でもない事言わないでよ!」と激怒された。お姉さんは未来を見ていた。今しか無いような言い方をされたら怒るのも当然だろう。今後どうしていこうかとか、術後10キロくらい痩せた従姉妹にあれこれ話しかけて鼓舞していた。

 

あれから、20年近く経つけれど、旅立った従姉妹と最後の1日を過ごしたあの日、「いちばんの願いは何?」と尋ねた私に彼女は真っ直ぐに自分の気持ちを言ったのに、「そっかぁ」と本当に自分の信じている事を言わずに当たり障りのない言葉で後ろ髪引かれながら去った自分の事を未だに引きずっている。自分が信じた事なら迷わずに、それに則って行動すべきだったのでは?あの日が何となく最後になると思いつつも従姉妹が喜ぶひと言すら言ってあげられなかったのは、タブーの壁の前に迷いと怯えで勇気が持てなかったからだと誰よりも自分自身が知っていた。なぜ、あの貴重な1日を活かせなかったのか?

 

 

口腔外科+歯科

舌表しか診ていなかった口腔外科の研修医が舌裏の炎症に気付いた。随分、驚いて何度も写真を撮った。

「これ、最初からありました?」

「はい、ありましたよ。最初の方が痛かったけど…」

歯に当たっていた部分に水疱が出来て破れてしまったらしい。そこが歯にあたるので非常に痛い。食べ物がそこに触れるだけで痛い。舌裏は白くなっている。こういうのは放っておくと癌化すると聞いている。今回は左側だけど前に右の方も同様になったので歯科で金属クラウンを保険外のに交換してもらったことを話した。すると研修医は金属アレルギーかもしれないと言った。ステロイド軟膏を出しておくので次回の来院まで様子を見て治りが良くないようなら次回、病理組織検査と言った。前回の右側の金属クラウン交換も私が自分で判断して交換してもらった。右側のクラウンは1個だけだったが今回の左側はブリッジだ。歯科で右と同じように保険外で金属クラウンを交換して欲しい旨を話すと歯科医は交換は出来るが交換したから口内環境が治癒するという保障は出来ないとしぶった。右側も保障なんか無かった。ただ私が交換することで問題が解消すると判断しただけだったと言うと納得してくれて仮歯を作る歯型をとってくれた。これで次回は金属が外され仮歯になる。歯科医が保障出来かねると念押ししたのは保険外だと高額になるからだ。今回はブリッジなので右側のクラウン交換の3倍の値段になる。右側の時も私は金属アレルギーか判断しかねた。長年使っているうちに歯の内側が鋭利になってしまい舌を傷つけたのかも知れないと思っていた。今回も最初は同様に考えていたが右側の時よりも症状が重く何となく金っけと言うか、口の中に金属イオンのようなものを感じる。そしてネットで調べているうちに金属アレルギーと確信するに至った。私はアクセサリーを付けないので金属アレルギーか、あまり良く判らなかった。しかし今回は右側と違って3倍もの金属クラウンなので確信を持てた。飲食後は痛みがあるので直ぐに歯磨きとマウスウォッシュをして軟膏を塗布する。飲食後の手当があるので飲食がおっくうになる。たとえ飲物だけでも水以外は雑菌のような痛みを感じるのだ。来月、金属クラウンを外したら口内炎も治癒するだろうと期待している。

もう頑張らなくていいのだよ

ある日お寿司を頬張ると唇にあたった。3回くらいこんなことがあるとゾッとしてしまった。口を開けているつもりなのに開いていないのだった。何だろう?とネットで調べると顎関節症と判明。そのうちテレビ番組でコロナ禍に顎関節症になる人が多いからと口を開けたりマッサージする方法をやっていた。どうやら私だけではないらしいと少し安堵した。歯科で「食いしばり」と言われてマウスピースをこしらえた。寝るときに使ったら歯に何かが貼り付いてなかなか取れない夢で目が覚めた。顎関節は口を大きく開けるとこめかみ辺りがギシギシ鳴る。もともと口を大きく開けるのが苦手だったけど、ひとり暮らしで話すこともなく口を閉じたままという時間が多いので開口してギシギシ鳴らすことに努めた。ところが最近舌に亀裂が入り舌の中央部が白く何か貼り付いた感じで味覚も落ちたので口腔外科に行った。検査の結果「カビはありません。悪いものは無いので、そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」と言われた。口腔外科でいう悪いものとは舌癌などのことだろう。唾液腺のマッサージを勧められた。思い当たることといえば脱水だけだった。最近は水分も食事も少なくなっていたので経口補水液OS-1やポカリでせっせと水分補給した。その甲斐あって少しずつ舌の白いものは取れた、が亀裂は治らなかった。脱水だけでなく医師はやはり「食いしばり」と緊張状態で舌が上に付いて真空状態を作るからと言う。「とにかくリラックスしてください。もし集中したり緊張して力が入っていると気付いたら直ぐに解いてあげてリラックスするよう努めてください。首もコチコチ。」と医師に言われた。口腔外科の先生は優しい研修医だ。リラックス、リラックス、と今度はリラックスに努める?ことに集中するので結局同じだ。そういえば私は掃除する時も料理を作る時もいつも歯を食いしばっている。それだけならまだしも心の中で「頑張れ、頑張れ」と声掛けして自分を鼓舞しているのだ。私は友人からも家族からも頼られる方だった。母といても頼られることが私には重かった。その重荷が取れたのは母から理由を聞いたときだ。「あなたと居るとお母さんと居るみたいなの」と母が言った。私は祖母と似ていると母は言った。祖母は母が15才の時に結核で逝去した。母は8人兄弟の長女で赤ん坊だった末の妹まで育てて来たのだ。親子が逆さまみたいと感じていた理由が解った時、私はやっと納得がいったのだった。環境からではなく私の性格からきているのだろう。いつのまにか頑張らなきゃ!と生きてきた私にとってリラックスするのは難しい。どうしたら良いのか?何が私にとってリラックス出来ることなのか、あれこれ考えながらTVをぼーっと見ていた私は買ってみた。これまでの私がしなかった事をしてみようとTV shoppingで買った事などなかったのに前から買う予定ではあったので思い切って購入したシャワーヘッド。トルネードのナノバブルというやつだ。リラックスへの一歩だ。翌日には届いたけど使ったのは3日後のことだ。この辺が違うのだろう。リラックスが身に付いている人は届いたらすぐに使うのだろうにと思った。そういう人は迷わず真っ先に好物を食べる。私は貧乏性で、子供の頃からそういうことが出来なかったことを思い出す。シャワーを使っている時は柔らかい水当たりしか感じなかったが髪を乾かすとフンワリ持ち上がったのには驚いた。髪の一本一本が立っていて風通しが良くなって軽い。頭皮の汚れを水流で落とすというのが実感出来る。髪の方に気を取られて身体の方の効果がはっきりわからないので次は洗髪無しのシャワーにした。あ、やっぱり違う!上手く言えないけど身体の表面がふわウルスベだ。薄いベールをまとったような感じだ。リラックスの一歩は成功した。「頑張れ、頑張れ」と自分に言い続けてきた私が「よく頑張ったね、もう頑張らなくていいよ」と自分に言ってあげる時はこの世とお別れする時だと思っていた。だから今、頑張らないようにと医師から言われると、もしかしたら、もうそろそろおしまいの所に来たのかなぁとも思う。思えば何十年もすぐに行ける所に住んでいても東京タワーもスカイツリーも行った事がない。残りの人生は少しずつ視点を変えた生き方をしていこう。今までの価値観ではなく真逆のことも受け入れてみよう。きっと見たことのない世界が見えるだろうから「そんなに頑張らなくていいのだよ、もう充分頑張ったよ、私。」今日から寝る前に自分の頭ナデナデしてあげようね。

銀座で起きたふたつの出来事

私は何度か銀座で働いていたことがある。

ある日、帰り道に歩道を歩いていると横断歩道を渡り終えた男の人が歩道につくや否やガシャンと音をたてた。私の目前でそれは起きたので一部始終を私は見ていた。彼は嬉しそうにお酒の箱を抱えていた。あまりに嬉しくて待ちきれないという様子だったから止まることもせず歩きながら箱を開けて中のお酒を手にしたかった様子が解った。しかし箱から手にした瞬間に歩いていた勢いもありお酒は下に落ちてしまったのだ。瓶のガラスは粉々に砕け散って辺りに良い香りが広がった。私はお酒に詳しくないのでウイスキーなのかブランデーなのかわからなかった。彼はしばし呆然としたが周囲の視線を感じてか、すぐに諦めた。片付けようにも片付けられず困っていたが、それよりも彼のショックはいかばかりかと察せられた。銀座まで来てやっと手に入れられた希少価値の高いお酒だったであろう。それを手に入れた喜びを抑えきれず早く手にして眺めたかったのだろう。高価だったに違いない。お金を払って念願のお酒を買った時に、まさか数分後にはパーになっているなんて想像だにしなかったことだろう。彼はお酒を一滴も味わうことなく代わりに喜びと失望を数分の間に一挙に味わった。人ごとながらも彼の残念さがどれほどのものだったかとなかなか忘れられない出来事だった。

 

銀座での勤務帰りに歩道でいきなり若い男子に腕を捕まえられた。彼は私に「お前は日本人だな」と言うと私の手を取って上に上げさせ大声で誰とも言わず周囲に向かって叫んだ。叫んだ内容は半分も解らなかった。私に解ったのは彼が韓国人だということと日本人に対して敵意を抱いているということだけだった。「お前ら日本人は‥‥と罵倒すると私の手を投げ捨てるように離し、歩いている人達に向かって叫んでいた。私は急いでその場を離れた。いきなり街中で捕まえられて刺されることもあるだろうから怖かった。職場では中国人や韓国人に会う機会がある。表立っては言わなくても韓国人の日本人に対する恨みは世代を超えて語り繋がれていることは確かなようだ。忘れられない出来事のひとつである。

冠婚葬祭の舞台裏

冠婚葬祭ほど宗教がもの言う(?)時はない。結婚式では仏式も神道キリスト教もお構いなく受け入れられて衣装だけ両方共の人もいる。しかし葬儀だけは流石にミックスはない。もう30年程前だが初めてキリスト教の葬儀に参列する事になった。高齢の女性はクリスチャンだったので教会での葬儀を希望された。だが、その方の御親戚にクリスチャンはひとりもいらっしゃらなかった。親戚の方々は献花しかない、お経も位牌もご焼香もない慣れない葬儀に我慢の連続であったろう。遺骨を骨壺に納める時のことだった。ちょうど牧師と私の二人が、どうぞと勧められてそれぞれに拾いはじめた。我慢の限界にきてか後ろに並んでいた中年男性が激怒した。「何てこった、骨は二人で持って入れるんだよ!もうやってらんないよ!」私が彼の怒声に振り返ると男性は怒ったままその場を出て行った。牧師を見ると何事もなかったかのように黙々と骨を拾っていらした。最近は仏教でも「二人で持ちにくい時はひとりでいいですよ」と言われるようだ。葬儀の宗教違いは知ってたけど火葬場での宗教違いは私はこの時まで知らなかった。葬儀に参列する機会が殆ど無かったからだろう。故人と参列者の宗教の違いはなかなか難しいものがある。私も最近、母を亡くした。クリスチャンは家族でも私だけだ。私が母をみていた事もあり喪主となった。実家は浄土真宗なので、そちらのお坊さんを頼んで浄土真宗で葬儀も済ませた。依頼したお坊さんは他の宗派の特徴まで多くの事を教えてくださった。「浄土真宗は結構自由なんですよ。浄土真宗は物に魂が入るなんてことはありません。終わったら遺影も位牌も分別してゴミに出してくださいね。それじゃあ気が済まないと思われるのでしたら、お焚きするなどしても良いでしょう。燃えるゴミでいいんですよ。ご遺体に小刀も必要ありません、浄土真宗は亡くなったと同時に往生するからです。」と言って小刀を取り除けられたが安置所では葬儀社の方がまた小刀を載せていた。小刀が載っていようがいまいがどちらでも良い。私は正直ホッとしていた。様々な宗派があって儀式があって何宗派を名乗っても本当のところ自分の宗派の事も詳しくは知っていないことが多い。葬儀社の方々もいろんな宗派を承るから混同して訳がわからない。ああしなければいけない、こうしなければならないと思い込んでいるだけで、その根拠も知り得ないというのが本音だろう。だが様々な宗教の違いに関係なく葬儀は残された人の為の気がする。クリスチャンだった故人は他の御親戚が知る事もなかった葬儀に参列して、これまでと違う経験をして欲しいという思いから教会でと願われる。大切な証の場になり得るので本来なら異なる宗教の遺族にも体験して欲しいと思ってのことである。故人がクリスチャンであっても必ずしも教会で葬儀されるとは限らない。ご遺族の仏式の葬儀に招かれれば遺族の方が嫌な思いをされないように仏式に徹するという牧師がいらした。このように葬儀は故人の意向より残された遺族の決定が優先される事もある。それを思えば我慢して故人の意向を尊重された先のご遺族は優しかったのかもしれない。

身内と他人の境界線

ある青年が母親から「身内と他人を区別しなさい!」と言われて考えた。しかし考えれば考えるほど線引き出来ないと悩んで相談した。どこからが他人ですか?と訊いた。辿っていくと確かにどこまで従姉妹や従兄弟、孫ひ孫、とキリがなかっただろう。そこで私は教えてあげた。「君のご両親は他人だったのだよ。家族は他人から出来てるのさ。いや、むしろ他人からしか家族は作れないと言った方がいいかなぁ」と。彼は固まってしまった。こんなパラドックスをどう扱っていいのか解らないという様子だった。会ったこともない身内もいれば離婚して、よく見知った他人もいるわけだ。青年のご両親も離婚したら他人になる。家族という枠組みが彼の中で音を立てて崩れ落ちるだろうし他人という距離感もグンと違う様相を見せるようになる。親が離婚した子供達は単純なこのシステムに複雑な思いをさせられるのだ。私だって家族という言葉をどう使ったら良いのか解らない。親や兄弟姉妹が一緒に住んでいた頃は、まごうことなく家族と言える。だがやがて各々が家庭を持ち独り立ちしていくと、そっちが家族になる。それでも旧(?)家族は家族と呼ばれる。「あなたの家族は?」と聞かれたら夫や子のある人は、そこを家族と言うがそれに祖父祖母も加えて家族と呼ぶ。同居していなくても祖父祖母はどの子供の家族とも組み込まれるので家族が重なって存在している感じだ。どうやら第二親等までを家族と呼んで良いらしい。歳を重ねてくると疎遠になりがちだが、また他人と一緒になれば家族が出来る。結局のところ身内も家族も気持ちひとつで決まってしまうのだ。ふと若い頃「70才になったら結婚しようかなぁ」と冗談めかしに言っていた事を思い出した。皆に「老人ホームで結婚するの?」と笑われた。当時の70才は殆ど老人ホームに入所していたものだ。そして実際に老人ホームで結婚した人がいて話題になった。その頃同時に「僕は100才まで生きるんだ。」と迷い無く豪語する同い年の男子がいた。私は自分のことは棚に上げて驚き呆れたけれど、それも今では人生100年時代と言われ、おかしい事ではなくなってきている。それなら私の結婚適齢期はそろそろ目前に迫ってきていることになる。なんて楽しみなことだろう。